屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.250 謙虚になるということ  H19.07.30)

7月半ばに見たTV番組「たかじんのなんでも言って委員会」で「女性の品格」という本をネタにトークがあって、そのあと男の品格が話題になった。そこでのトークで私は謙虚さというのが一番の要素であると大方が思っているように受け取った。しかしはなしを聞いていて、私は人に謙虚であれと言うことは難しいのではないかと感じた。

私は多分おとなしい口利き・振る舞いをするから謙虚らしいと思われている。そう言われることもある。しかし通常私は弱い立場にあることを自覚していて弱い立場に見合った振る舞いをしているからそうとられているだけである。だからちょっと強く出られそうなときには横柄な口利きをしたり傲慢な態度をとることもある。それでも少しはましかなと思うのは、そういうことをしたあとは必ず自己嫌悪に陥る面を持っていることである。

そんな程度の品の私であるが、見るからに謙虚そうな振る舞いをする人でも家に帰れば暴君になるとか、高い地位に就くと高慢になり横柄な口を利くようになる人とか、ちょっと見で相手を値踏みして言葉遣いがぞんざいになる人とか、そのときの立場・状況で振る舞いが変わる人は人の質として上等とは言えない、つまり謙虚な人ではないというくらいは分かる。

礼儀をわきまえると言えばその場その場であるいは立場立場で適切な振る舞いができるということだが、謙虚さというのはそういう相手あっての作法のような形ではなくて人の根底にあるのが望ましい身についた気持ちのあり様らしい。どうしたらそういう気持ちが身につくのかとある人の書いたものを見たところによると、自分が嫌な目や苦しい目にあったり挫折したりして考える経験の中から自然に身についてくるものであるということのようである。

しかしそうでない優れた人物もいるかもしれない。ある事柄・心情を経験していないと小説に書けない作家と経験していなくても同じ事を書ける作家では後者の方が才能があるというような説を吉田健一の文章に見た記憶がある。だから天才的な人はいるのかもしれないが、私は謙虚さという点に限定すれば多分後者は親その他の周囲の謙虚さに裏打ちされた言動に接しながら考えたりして成長したからではないかという気がしている。

謙虚という言葉は知っていても謙虚でない人というのはそういうことを考え身につける機会・経験がなかった人であるということであれば、身についていない人にそういう振る舞いを期待しても埓はあかない。そういう人に謙虚であれと言うことには難しいところがある。件のTV番組を見て私はそういう感想を持ったのである。うろ覚えだが孔子も「どうしようもないやつはどうしようもない」と言っていたように思う。

以上、謙虚ではないが少しはそうでないことを恥じる気持ちはある私の感想である。さて、自分自身についてであるが、なにごともお見通しながら優しく振る舞えるようになりたいというのが、「偏見ご免のたわごと編:No.5」に書いたように私の課題ではあるがなかなかそうなれないものである。謙虚でなければそれが自分に跳ね返って憎まれ手助けしてくれる人もいなくなる。そうなりたくはないという思いもある。まずは身近な妻にだけでも愛されまた支えてもらえるようになりたい。妻に私が謙虚になろうとしていることを分かってもらわなければと思ったことである。


 
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